主題聖句 「あるだけを全部 」
賛美歌 320
ヘブル聖書 ルツ3:1-5,4:13-17
主の祈り
ニカイア信条
詩編 127
賛美歌 Ⅱ-100
使徒書簡 ヘブル9:24-28
福音書 マルコ12:38-44
説教 「私達が世界を変える?!」
賛美歌 529
頌栄 546
祝祷
日本ハリストス正教会「天主経」[編集]
- (司祭が居る場合、以下司祭朗誦・高声)
「アミン」。
- (司祭が居ない場合は以下、但し唱えられない事も多い)
カルケドン信条
- この故に、我らは、聖なる教父らに倣い、凡ての者が声を一つにして、唯一人のこの御子我らの主イエス・キリストの、実に完全に神性をとり完全に人性をとり給うことを、告白するように充分に教えるものである。主は、真に神であり真に人であり給い、人間の魂と肉をとり、神性によれば御父と同質、人性によれば主は我らと同質、罪をほかにしてすべてにおいて我らと等しくあり給い、神性によれば代々の前に聖父より生れ、人性によれば、この終りの時代には、主は我らのためにまた我らの救のために、神の母である処女マリヤより生まれ給うた。この唯一のキリスト、御子、主、独子は、二つの性より(二つの性において)まざることなく、かけることなく、分けられることもできず、離すこともできぬ御方として認められねばならないのである。合一によって両性の区別が取除かれるのではなく、かえって、各々の性の特質は救われ、一つの人格一つの本質にともに入り、二つの人格に分かたれ割かれることなく、唯一人の御子、独子、言なる神、主イエス・キリストである。これは、はじめから、預言者らまた主イエス・キリスト御自身が懇ろに教え、教父らの信条が我らに伝えた通りである。
- ルツ3:
2 ところで、あなたが若い女たちといっしょにいた所のあのボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。
3 あなたはからだを洗って、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行きなさい。しかし、あの方の食事が終わるまで、気づかれないようにしなさい。
4 あの方が寝るとき、その寝る所を見届けてから入って行き、その足のところをまくって、そこに寝なさい。あの方はあなたのすべきことを教えてくれるでしょう。」
5 ルツはしゅうとめに言った。「私におっしゃることはみないたします。」
ルツ4
13 こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところに入ったとき、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。
14 女たちはナオミに言った。「イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。
15 その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」
16 ナオミはその子をとり、胸に抱いて、養い育てた。
17 近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その子をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。
14 女たちはナオミに言った。「イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。
15 その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」
16 ナオミはその子をとり、胸に抱いて、養い育てた。
17 近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その子をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。
ヘブル9
24 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。
25 それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
25 それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
マルコ12:
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