Tuesday, February 03, 2015

2015/2/1 礼拝

イスラム国のテロ事件が世界を騒がせています。
かつては貧困故のテロであり、ジハードで殺すのは異教徒でもイスラム教徒でも、自分は死んだら天国で、食べ放題、一夫多妻の生活ができると、完全に自己中心的動機を神のためなのに神に仕えると偽っての行動でした。
現在のは、豊かな国で育って、ある意味エリートとして育ったけれど、西欧先進国のあり方に挑戦しているといった、複雑な動機であり、我々には理解不能です。

 「さて金持ちケンカせず」という格言のもともとの意味は不明ですが、経済的余裕から人間的余裕となるのでしょうか。豊かでエリートテロリストには当てはまらないようですが。
愛の人になるにもステップがあります。
靴を脱いだら揃える、人の履物もそろえる、それが習慣になって無意識にやるようになって本物。やがて人の犠牲になってもそれが喜びとなる「聖人」の域に達するかもしれません。
愛の行為は救いを求める条件ではありません。それだと単なる商取引。
救いは、我々がまだ罪人であった時、それどころか、2千年前に行われています。
大きな愛を受けていることを実感した人は、感謝の思いで愛の行為が可能です。

綾小路きみまろ師匠の基本ネタ。「あれから40年」。夫婦の愛は40年もたない話ばかり。
「ちょっと太ったかしら。背中のホックがかからない。あなた昔、私のために命をかけると言ったじゃない。背中のホックぐらいかけてよ!」
純粋な気持ちで、「命をかける」と思ったのは事実でしょう。でも人の愛は限界があります。神の愛とは比べ物にならないのです。

 神の愛は人の愛と、全く比べ物になりません。
永遠の愛を誓って結婚してすぐ離婚。見返りを求める愛。
「愛着」などと言うように、人愛は独占欲も含まれます。
神の愛では、我々の魂は、エレミアのように、物質のできる前から、神に愛されています。(エレ1:5、参エペ1:4、箴8:22)
肉体が必要とする衣食住すなわち富や名声、栄誉は50年〜100年で不要となります。
百年や千年の単位で人生を考えるのは普通です。
永遠の昔から永遠の未来まで愛されている我々は永遠の単位で考えるべきです。

永遠単位といえば壮大な感じで、実生活に関係ない印象があります。
しかし日々の生活の中に永遠の単位で判断する習慣を持ちましょう。
確かに複雑なのは、衣食住に多少なりとも余裕が持てる我々なのに、引きこもりやニートに流れる生命力に乏しい人達を輩出している理由を求められています。イスラム過激派と共通するものもあるのでしょうか。
せめて今週も一歩愛の人に近づけることを。




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